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フルコース閉鎖の前年に当たる73年の富士GCシリーズ最終戦、バンク内多重クラッシュによる中野雅晴選手の車が爆発炎上、中野選手死亡(かつてバンク内に炎上跡が残っていたという話を聞いたことがありましたが・・・ここでは確認できませんでした)。そして奇しくもそのレースで表彰台に立った風戸裕選手、鈴木誠一選手が、冒頭語った富士「フルコース最後のレース」で・・・どうしてもそれらモータースポーツの暗い部分がクローズアップされがちなこの場所、一応"メモリアルパーク"として記念碑的にしたのはある意味正解かもしれません。

その一方、フルコースを使った66年第3回日本グランプリで、日本初のレースカー(プロトタイプカー)プリンスR380がポルシェを押さえ勝利!日本車が外国車に初めて勝った瞬間でした。

さらに翌67年第4回日本グランプリ、あのブリヂストンのレースタイヤが、それまで水をあけられていたファイアストン、グッドイヤーといった外国製タイヤを押さえ、この地このフルコースで公式メジャーレース初勝利をおさめました。そして時は流れ現代、ファイアストンはブリヂストン傘下となり、90年代にはグッドイヤーをも凌ぐF1タイヤとして成長、そして今や世界に名立たるブリヂストンレースタイヤの「第1勝目」がここになります。

又、間接的なエピソードとして、亡くなられた風戸選手のプライベートチーム「ノバ・エンジニアリング」を、共同出資していたご家族の意向もあり、以前から風戸選手のメカニックを務めていた猪瀬良一さん(現同社社長)と森脇基恭さん(現同社取締役。F1ファンの方にはお馴染みですよね)らにより買収、レーシングチームとして第一線で活動していきます。そして風戸選手の死後ドライバーを探していたそのノバチームが、結果が出せず途方に暮れながらパドックでカレーを食べていた中嶋悟という若者に声をかけ、その後ノバのFJマシンに乗りポールトゥウィンで連戦連勝を飾った・・・という話もあります。

もう一方の故鈴木選手は、生前「東名自動車(株)」というレースカーチューンナップ会社を創っていました。そしてその技術は弟さんや弟子たちに受け継がれ、現在「(株)東名パワード」と「東名エンジン(株)」の2社に分かれ、さらにその「東名自動車」社員であった中野啓吉さんの「(株)東名スポーツ」と、現在もフォーミュラニッポン、スーパーGTを始め、世界中のレースカーのメンテやチューンナップで欠かせない存在となっています。

他にもスカイラインGT−R49連勝、TNTの対決、グランチャンピオンシリーズの誕生・・・日本モータースポーツ史の明と暗が同居する場所、日本レース創世記が真空パックされている場所・・・レースマニアな方、モータースポーツファン、又F1しか見たことが無いという方も、是非ここを一度訪れてみて下さい。あの熱い時代の息吹が聞こえてくると思います。

"夏草や 兵どもが夢の跡" ・・・では、富士スピードウェイでお会いしましょう
  

バンク上部を撮りました。ところどころ継ぎ目にヒビが入ってしまっています。

「終点」側からパーク入り口に向かって逆に撮った写真です。こうしてコースに立っていると、向こうからトヨタ7、可変ウィング装着車"怪鳥"日産R381、6000ccエンジンR382、そしてポルシェカレラ906、910・・・かつての名車たちがこちらに迫ってくるような幻想に襲われます。

さらに歩いていくと行き止まり。この先にはかつて2つの130Rで編成されていたS字コーナーがあり、そこから今のコカコーラコーナーへ繋がっていました。

メモリアルパーク眼下に広がるショートサーキット、さらにその先、かつてのS字区間には「トヨタ交通安全センター モビリタ」があります。

"壁"に昇って下を撮った写真。超急勾配を昇るのもつらかったですが、降りるのはもっと怖い!転げ落ちそうになりました。
 
バンク路面の終点付近にある公園です。ベンチもありここで一休みできるようになっています。モータースポーツファンたるもの、かつての60年代日本グランプリやトヨタ7に関する書物を片手に、ここで一度物思いにふけるというのも宜しいのではないでしょうか。
 
第3回からここ富士で始まった日本グランプリ、以降様々なレースがこのコーナーを舞台に行われ、伝説の車が駆け抜けて行きました。日本最初のレースカー「プリンスR380」、日本車の高い壁となっていた「ポルシェカレラ6」、グループ7排気量無制限車「トヨタ7」「日産R382」「ローラT70」そしてGCカー・・・
ちなみに今の第一コーナーにあたる部分から先、このバンク突入までゆるやかな下り坂だったそうで、さらにこのバンクコーナー内も写真の通り下り坂になっています。しかもR(カーブの急な度合い)が突入部分は鋭く、あと徐々にゆるやかにになっていくという作りになっています。長いストレートでスピードを乗せ、ゆるやかに下りながらグルーッとカント30度コーナーを曲がっていく・・・さぞかし攻略が難しかったと思います。


バンクの路面は、一部はこのようにひび割れ、踏むとグニャグニャになっています。

"壁"に向き合って撮った写真です。かつてこの上にスタンド席があったそうですが、下から見る限りではそれを感じることが出来ません。

いざメモリアルパーク内へ足を踏み入れてみます・・・目の前に広がる"壁"・・・そしてそれがはるか彼方まで延びている・・・恐らくだれでも最初に圧倒されると思います。
かつてはあの長いホームストレートから250kmオーバーでここに突っ込んでいった・・・別称「すり鉢バンク」本当にすごいと思います。


これがメモリアルパーク入り口付近にある看板です。
旧フルコースレイアウトと共に説明がかかれてあります。お馴染みのピストル型レイアウトは、右側1/3をショートカットする形で使われていました。


メインスタンドからコースの外周道路を通り第一コーナーの先、それはあります。東ゲートから入場しメインスタンドへ向かう車中の右手、若しくはメインスタンドから東ゲートへの帰路の左手、見ることが出来ます。
写真館 in FISCO




 皆さんはご存知でしたでしょうか。かつての改修前富士スピードウェイでお馴染みピストル型コースレイアウト、実はあれはショートコースだったということ・・・

 本来のフルコースは全長6km右回りで、第一コーナーがさらに先にあり、バンク角30度のコーナーだったこと、そしてピストル型ショートコースは左回りだった(ヘヤピン状の第一コーナーは最終コーナーだった)ということ・・・

 65年開業当初からしばらくの間はフルコースが使用され、当然30度バンクを使用したレースが行われていました。しかしマシン性能の向上に伴い、高速で駆け抜けることが出来るその第一コーナーが原因と思われる死傷事故が起こり始め、安全性に関する問題が出始めました。

 そして運命の74年6月2日 富士グランチャンピオンシリーズ"富士グラン300km"、当時のトップドライバーだった風戸裕選手と、鈴木誠一選手のご両名が他のスピンしたマシンに接触されクラッシュ、マシンが炎上。そのまま火災に巻き込まれ亡くなるという事故が発生しました。

 当初事故原因がはっきりするまでの間フルコースは封鎖としましたが、結局そのまま封鎖され、以降公式のレースで使われることは永久に無くなりました。

 そして富士新コース工事に伴い、閉鎖されたフルコース部の殆どは改築により無くなってしまいましたが、その歴史的価値からメモリアルパークとして30度バンク部の一部が残されています。

 日本モータースポーツ史を語る上で欠かすことの出来ない富士スピードウェイ旧6kmフルコース、そしてその代名詞ともいえる30度バンク・・・その今を是非ご覧下さい。

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